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一九七〇年、ホックは四一歳で、新たに設立されたナショナル・パンカメリカード杜(独立した会社で、バンク・オブ・アメリカが商標を売った)のCEOとなった。
ホックは、どんなカテゴリーの銀行(大手、中小、東部、西部など)にも支配されないように取締役会を構成した。 つまり、自分が操縦できるようにしたのである。
また、取締役は各銀行のCEOでなければならないとも主張した。 取締役会の決定が異論なく実行される、ということである。

ホックは、小さな町の銀行家なら何かで読んだことはあっても実際に見たことはないような、エキゾチックで快適な場所で取締役会を聞いたハワイ、リオ、モンテカルロ。 取締役会は当然、自分の意見に賛成すると考えていて、そうなりそうもない時は、かんしゃく玉を破裂させた。
会議に参加したある人物によれば、「彼はいつもこう言ったものだ。 「賛成の者は賛成と言え。
反対の者は、出て行きなさい』とね」ホックが最初に考えていたのは、間違いなく、バンク・オブ・アメリカの名前から逃れることだった。 その名前が彼をバンク・オブ・アメリカの召し使いにしていたからだ。
結局六年かかって、取締役会(とバンク・オブ・アメリカ)は、会社とカードの両方にVという名前を使うことを受け入れた。 彼の起こした最初の行動は、コンピューター化に三〇〇万ドルの予算をかけたことだった。
まずは電話に代わり取引を認証するメカニズムで、後にさらに洗練されて、代金の清算に際しての紙類を減らすことになる装置である。 現在では、交換決済のシステムに紙は一切使われていない。
商店のレジから出る、客が署名した伝票は、商店と客の両方に一枚ずつ、写しを発生させるが、その取引に対して異議が申し立てられ、伝票の真偽の確認が行われない限り、誰も写しを見ることはない。 カードの認証や支払いにかかわるすべてのことは、電子的に行われる。

費用は、昔と比べたら、その何分のつ何十分の一になっている。 商店に対する支払いは非常に早く行われ、手数料は代金のごくわずかしか取られない。
事実、マージンがあまりにも小さいので、商店の取引銀行の中には、消費者の取引銀行から代金立て替え手数料を受け取るだけで満足し、商店から手数料を取るのをやめてしまったところもあるくらいだ。 このシステムの効率性が極めて高く、またMカードという同僚の存在もあって、新たに業界に参入してくる者にとってハードルは非常に高くなった。
例えばシアーズは一九八〇年代半ばに「デイスカパー」カードを発足させ、八九年にVの処理システムを使わせてほしいと申し入れたが、拒否された。 AT&Tが一九九〇年に、またZ・モーターズが九二年に、それぞれ参入したが、銀行カード軍団によって追い払われた。
三つとも、生き残ってはいるが(手数料無料のカードを提供することで、消費者には有り難く、ほとんどの銀行が何とか対抗しなければと感じている)、どれもメジャーにはなっていない。 銀行系カードほど早く、また効率的に商店に対する支払いができないからだ。
デイスカバー・カードはかなり頑張っていて、六%のシェアを持っているが、シアーズ関係のクレジット販売が多い。 一九九六年春、E杜は、たとえVのフランチャイズを犠牲にすることになってもEのカードを扱うよう、銀行を説得する予定であると宣言した。
だがE社は商屈に対する支払いが銀行系カードの会社よりずっと遅れ、すでにやや苦しい状態にあったため(長期間続いていて、最も成功しているネガティブCMの一つが、外ならぬVのCMで、カーテンに向かって誇らしげに「Eは使えませんよ」と宣言する)、同社にチャンスを与えた銀行は多くなかった。 ホックは当初から、Vのシステムは国際的に通用するものでなければならないと強調していた。
海外に八〇〇万人のカード所有者を抱えるシテイコープのJ・ベイリーは、「ホックがいなければ、我々はここまで来られなかっただろう」と言う。 米国の外でも通用する名前が必要だということが、ホックがパンカメリカードというブランドを排除し、会社も、そのサービスも同じ「V」という名前で呼んだ理由のひとつだった。
一九七七年のことだ。 八四年にクレジットカード関連のオンラインの通信システムが各地に設置されると、今度は彼はVをキャッシュカード・ビジネスの方向に向けさせた。

人々が、商店のレジで融資を得るだけではなく、自分の口座から金を引き出せるようにしたのである。 これは、非常に金のかかる事業になりそうだつた。
取締役会は、到底うまくいくまいと反対したが、あれこれ振り回されるのに結局は飽きて、ホックが辞めると脅しをかけると、それに応じた。 私は一九八二年、ホックがまだそのショーを演出している頃に、パロ・アルトの丘にあるVの技術・計画部門を二日間かけて訪問したことがある。
会社は未来をしっかりと掌握していた。 彼らによれば、一九八五年までに(実際にはもっとかかった)、米国の商店の八五%がカードの認証を読み取り機を通すことで行っているだろうし、八〇年代の終わりには、数時間おきにローリング決済を行うVの交換機を使った銀行間の支払いの方が小切手システムより手早くなるだろうと言う。
だが、疑いもなくこうしたシステム整備の先駆者であるホックに、実際に会えたのは彼の引退後で、ちょうど私が「ニューヨーク・タイムズ」に、バンク・オブ・アメリカを悩ます難問の数々について記事を書いていた時だった。 本人に会ってインタビューしたという点で、ホックについて書いたほかの記者たちより、平均的には私の方が上だ。
それほど彼は、常に人前に出るのを避けていた。 私が見つけたのは、アボカド農場とモントレー半島の中間にある海岸沿いの乾燥した正の上(彼の生まれ故郷のユタに似ていなくもない風景)の牧場だった。
ジーンズにカウボーイ・ブーツ、草のジャケットという格好で柵に歩み寄った彼は、やぶに覆われた丘の方に広がる自分の牧場を眺めた。 旧敵の銀行に何が起きているかは自ら進んで話したが、クレジットカード事業については語りたがらなかった。
もう自分のものでなくなったビジョンには興味がないのだ。 九〇年代になると、彼は完全に我々の前から姿を消した。
彼が解任された理由の一つに、カリフォルニア・ストリート一〇一番地に建てたVの代表取締役室の費沢さがある。 バンク・オブ・アメリカのタワーのちょうど真向かいに、新しいサンフランシスコ名物の摩天楼を建てたのである。

四一階にサウナがあり、大理石の床にオリエンタルなかん繊越が敷かれていたが、本当に銀行家の欄に障ったのは、待合室に置かれた本棚の豪華きだった。 彼はそこに、偉大な先人たちの証言集を特別あつらえで保管し、その助言、それだけを自分の参考にしていた。
彼は技術屋では決してなかった。 その才能は、ロケット技術者に目標を与えることだった。
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